2002年9月5日

 
     

各種メディアでは、去年の記憶を再び呼び起こすテーマが取り沙汰されている。個人的には特別の感情・・感傷がフラッシュバックのような激しさで体内を貫いていくあの事件、あの瞬間。

今でも鮮明に覚えてしまっている光景、匂い、感情、そして疲労。
街に張られている「Missing Board」の写真。誰もが幸せそうな笑顔でこちらを見ていることが、たまらなく悲しかった。初めてニューヨークを訪れたときに聞いたパトカーの音は、ある意味わくわくしたのもだが、ことのときばかりは耳を覆いたくなるような悲鳴に聞こえてしまった。

11日間、毎日街を彷徨っていたこと、ホテルの床で寝たこと、水のシャワーを浴びて風邪をひいたこと、バスをヒッチハイクしたこと・・・

最後に・・・
今年はどんな気持ちで9.11を過ごすのだろうか?
でも、スタッフには「Happy Birthday」と心から祝福してあげたい。

2000.1.7撮影

   
 

当社サイトを1年間休止し、このページを配信し続けたことで、多くの皆様から暖かい応援メッセージをいただきました。
この場をお借りして感謝の気持ちを表します。本当にありがとうございました。
NYPD、NYFDの方々・島津製作所の皆様・伊藤慈吾君・タイホテルのオーナー夫妻・HISカウンターの皆様・我々の身辺を気遣っていただいたすべての方にお礼を申し上げます。

   

以下、掲載ページです。

     

     
はじめに、
スタッフの誕生日でもあるこの日、世界が未だかつて経験したことの無い朝を迎えました。計らずも私たちはこの歴史の証人となっていまいました。日本にいたら「大ニュース」で終わってしまうことが、目の前で起き、煙と臭いと涙が否応なしに身体に染み付いています。
そして、我々が「そこ」に滞在していることで、少なくともつながりのある方々には、「ひとごと」ではなく身近な事件として受け止めたことでしょう。

この場を借りてご心配いただいた皆様に心より御礼申し上げます。さらに、今回の事件で犠牲になった多くの方々のご冥福をお祈りします。

特別アメリカに入れ込んでるわけでもありませんが、どのような展開になるにせよ、建物が、車が、人が・・・それぞれ母国の再建を星条旗にこめて頑張るアメリカを応援します。

2001.9.24 ワイズシステムジャパン  代表  大石 芳也

 


半旗を掲げるウォール街


     


ここは「Grand ZERO」と呼ばれることになる

撮った写真がすべて報道写真になるほどすさまじい光景がいたるところで繰り広げられています。これが戦争なのだと実感しました。

さっきまで歩いていた人がただの肉片になり、灰と書類の断片が降ってくる。罪もないイスラム圏の人たちが責められ、店を壊される。

もうこのような悲惨な光景は二度と見たくありません。

今、復興に向かって歩き出したアメリカの人達にとって1日も早く安寧の日々が訪れることを祈るばかりです。
 

     

     

■2001年9月10日「前夜」

   

JFK空港からタクシーでマンハッタンへ。霧雨の向こうに見えたワールドトレードセンターが最後の「雄姿」だった。
「明日の夜はマンハッタンの夜景を見ながら船上バースデーパーティをしよう!」なんて気どったセリフも出てくるほど気分が高揚していた1年ぶりのニューヨーク。

その夜、友人の1人はブルックリンの知人を訪ねるため、我々と行動を別にした。今考えてみると、これも「運命」。

残った3人はホテルへ。34丁目、エンパイアステートビルの真裏。2日後に衝撃的な事件がここでも起こった。
本来ならばワールドトレードセンターのそばにある「マリオット・マーキース」で摩天楼の夜景を楽しめる部屋を確保したが、代理店の都合で現在のホテルへ。運命に感謝。


2000.1.6撮影


2000.1.7撮影
「私は言葉は信じない。信じられるのは写真だけ。」写真家Gilles Peressの言葉。

     

     
■2001年9月11日「当日」    

JFK空港からタクシーでマンハッタンへ。霧雨の向こうに見えたワールドトレードセンターが最後の「雄姿」だった。

「明日の夜はマンハッタンの夜景を見ながら船上バースデーパーティをしよう!」なんて気どったセリフも出てくるほど気分が高揚していた1年ぶりのニューヨーク。

その夜、友人の1人はブルックリンの知人を訪ねるため、我々と行動を別にした。今考えてみると、これも「運命」。

残った3人はホテルへ。34丁目、エンパイアステートビルの真裏。2日後に衝撃的な事件がここでも起こった。
本来ならばワールドトレードセンターのそばにある「マリオット・マーキース」で摩天楼の夜景を楽しめる部屋を確保したが、代理店の都合で現在のホテルへ。運命に感謝。


忘れれない1枚

     
 

■2001年9月11日「瞬間」

   

このときはまだ「好奇心」。寝ているスタッフを起こして事件を知らせる。

さらに衝撃が続く。「火災」として認識していた映像は、飛行機が衝突したことによるものであるという。その直後、信じられない映像が飛び込んできた。

旅客機が明らかに狙いすましたように北棟へ衝突。炎上。残念ながらホテルの窓からはその光景を見ることは出来なかった。しかし、その行為は明らかに「事故」ではなく、人為的に行なわれていたことであるとわかった。スタッフが一言「やばい。」

とにかく外に出て状況を把握したかった。慌てて身支度を整え、まず、カメラ。1km以上は離れているこの界隈も騒然としている。さすがと思ったのは、緊急車両用に専用車線が確保されていたことだった。

今さっきまで見ていた映像と同じものが飛び込んできた。ここはニューヨーク。改めて実感。

     

■2001年9月11日「衝撃」

   


だれも予想していない写真

追われる恐怖

「消火」活動に赴いたNYFDの消防車は数え切れなかった。このときは、「どうやって火を消すのだろう」という素朴な疑問で彼らを見送りながら、我々も現場に向かった。

現場まであと7ブロック足らずまで来たとき、ビルから立ち込めていた煙が一瞬膨張したように見えた次の瞬間、閃光を放った。

ビルの上部から噴出す煙。周りにいる人の動きが一斉に止まる。WTCの屋上に聳えるアンテナがゆっくりと傾き、高度を落としている。キノコ雲のカサが次第に下がってくるような光景。

鉄骨、紙片、人影。朝の太陽の光に反射してキラキラ光っている。 映画を見ているかのような自分でも不思議なくらいの客観視…何が起こったのかわかっているのに、思考はそれをまだ認めていない。

悲鳴、泣き声、ため息。「Sit! (くそったれ!)」 街頭を掃除していた初老の男性が箒を投げつけ叫んでいる。気絶する人がいる。誰かの名前を叫んでる人がいる。青信号でも車は動かない。間もなく煙に包まれることなど考えられない。

心臓の鼓動が恐ろしく早いのがわかる。他のスタッフも茫然自失。「戦争かも・・・」とポツリ。何となく、これから戦争が始まるかもしれないという予感があった。同時テロと知ったのは昼過ぎのことだった。

不思議なものでその直後、さらに現場に近づいていった。向こうから走ってくる人たちと何度かぶつかった。 こちらに向かってくる車や人はすべて灰まみれ。このときはカメラを持っていたことを完全に忘れている。そういう我々も灰を被った。

時間が経つにつれ、中にいた人たちのこと、消火活動に行った消防士たちのこと、ビルの周りにいた多くの人たちのこと、そして自分たちのこと、なにがどうなってしまったのか、思考は断片的 ではあるが働きはじめている。反射的にシャッターも切っていたようだ。靴も服も白くなっていることに気付かずに。

     
 

■2001年9月11日「絶望」

   


燃え尽きてしまった命

煙と匂いが体中にこびりつく。

まさかと思いつつもある程度覚悟していた「2棟目の崩壊」。このときはただただ逃げるしかなかった。すでに道路封鎖、地下鉄も・・・スタッフ全員に戦慄が走る。昨夜別れた友人が今頃地下鉄でマンハッタンに向かっていることに。

しかし、その心配もそこまで。次の瞬間、自分たちの置かれている立場の方が危ういことに気付く。

それでも振り向きつつ何度かシャッターを切って、絶望の現場から遠ざかって行った。

交通手段は歩くのみ。いつもの火曜日の朝の光景とはまったく違う閑散としたオフィス街、すべてが灰色のSOHO地区。プラスチックのこげた匂い、全身に灰を被った人、破れたスーツのまま佇むビジネスマン、未だに舞っている紙片。

あと30分早く行動していたら・・・。震えが止まらない。

     
     
■2001年9月11日「対極」    


すべてが灰色のSOHO

ダウンタウンの店はすべてシャッターが下ろされ、せっかく焼いたパンを無念そうに捨てる店主がいる。朝の晴天が嘘のように薄暗い。もちろん雲ではない。

ホテルに戻り、メッセージボードに友人宛てのメッセージ。まだ安否はわからない。「7時には部屋に戻っているから連絡を」と。

あてもなく歩くこと2時間。タイムズスクエアの電光掲示板では朝の事件が大々的に流れている。このとき、同時テロであったことを知らされる。さらに、アメリカが閉ざされてしまったことにも。

英語が理解できない観光客。仕方のないことだが、ショッピングを楽しみ、コーヒー片手に写真を撮っている。さらに北上してセントラルパーク。日光浴を楽しむニューヨーカー。
ティファニー以外のブティックはすべて店を開けて買い物客を集めている。

車で10分のところでは世界的規模の衝撃が起こっている。が、我々も芝生でゴロリ! 緊張から解き放たれた途端、空腹感が襲ってきた・・・。

     
     

■2001年9月11日「再会」

   


セントラルパークでの「気だるい午後」

どのくらい歩いたのか足が痛い。何度かホテルに戻っては友人が来た形跡を確認したが、未だ消息不明。

DELIで買った夕食とビールで、「Happy Birthday」。悲しい。テレビからは絶望的な話が次々と飛び込んでくる。ペンタゴンでもマサチューセッツでもテロ。

8時過ぎにロビーから電話。友人到着。みんなで「パーティ」やり直し。

目の前にあるマジソンスクエアガーデンはネオンが消えたまま。土産物屋は相変わらず客を集めている。今日帰国予定の客が再びホテルに戻って空き部屋を探している。3日後に帰国できればいいが・・・。

明日以降の予定はすべて「白紙」に。

     
     
     

滞在記に続く >>

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